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ウィキペディア ⇒ 項目一覧 ウィキペディア 稲葉弘通 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/03/14 02:25 UTC 版)稲葉 弘通(いなば ひろみち、宝暦3年(1753年)10月 ? 文政元年10月28日(1818年11月26日))は、豊後臼杵藩の第10代藩主。父は第9代藩主・稲葉泰通(弘通は長男)。母は側室と言われている。正室は牧野貞長の娘。子に雍通、娘(伊東祐鐘室)、娘(新庄直計室)、娘(一柳末昭室)、娘(細川利国室)。官位は従五位下、能登守、丹波守。宝暦3年(1753年)10月生まれ。幼名は熊次郎。弘通には家督相続時に複雑な事情がある。実は弘通は長男であったが、母が側室であった。それに対して父の泰通は正室との間に次男・稲葉副通をもうけていた。このため、父の泰通は弘通より副通に後を継がせようと考えていた。そして明和5年(1768年)7月2日に父が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったのである。ところが副通は将軍・徳川家治に拝謁することなく明和6年(1769年)6月に16歳の若さで夭折してしまった。このため、藩の重役たちは慌てて兄の弘通が父・泰通が死去した後に家督を継いだということにして将軍と拝謁させることで、改易を免れたのである。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない。藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の大飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。寛政12年(1800年)9月10日、家督を次男の稲葉雍通に譲って隠居する。文化8年(1811年)、剃髪して伊賀入道と号した。文政元年(1818年)10月28日、66歳で死去した。墓所:東京都港区高輪の東禅寺。 先代:稲葉泰通 稲葉氏(臼杵藩10代)藩主1768 - 1800 次代:稲葉雍通
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03ひろみち、項目一覧14百科事典出典は、ウィキペディア稲葉弘通版文政元年10月28日02豊後臼杵藩の弘通第10代藩主フリー2510月稲葉2007宝暦3年いなば1753年1818年11月26日ウィキペディアウィキペディア。父は稲葉泰通弘通は長男第9代藩主。母は言われている側室と。正室は牧野貞長の娘。子に細川利国室雍通、娘娘新庄直計室、一柳末昭室伊東祐鐘室、娘、娘。官位は丹波守従五位下、能登守、。宝暦3年10月生まれ1753年。幼名は熊次郎。弘通には家督相続時に複雑な事情がある。実は母が長男であったが、弘通は側室であった。それに正室との父の泰通は対して間に次男稲葉副通をもうけていた。このため、考えていた継がせようと父の泰通は副通に弘通より後を。そして後、父が継ぐこととなったのである7月2日に副通が明和5年家督は死去した1768年。ところが6月に16歳の1769年副通は若さで明和6年拝謁することなく将軍徳川家治に夭折してしまった。このため、慌てて弘通が死去した後に家督を泰通が重役たちは継いだということにして改易を免れたのである兄の拝謁させることで、父藩の将軍と。このため、臼杵藩の副通は歴代藩主として数えられていない。藩政においては、幕命によって行ない、大被害を図ったが、出費が再建を大飢饉によりさらに受け、藩内が美濃伊勢の河川普請手伝いに著しかったため、借上を天明の駆り課すことで効果はほとんどなかった出されてそのさらに藩財政窮乏化のために御用金を商人などに。寛政12年稲葉雍通に次男の9月10日、隠居する1800年譲って家督を。文化8年1811年剃髪して号した、伊賀入道と。文政元年1818年10月28日、死去した66歳で。墓所東京都港区高輪の東禅寺。次代稲葉氏稲葉雍通1800臼杵藩10代藩主1768先代稲葉泰通。


