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ウィキペディア ⇒ 項目一覧 ウィキペディア 吉良長氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/05/12 00:39 UTC 版)吉良 長氏(きら おさうじ、建暦元年〔1211年〕 - 正応3年6月18日〔1290年7月25日〕)は、鎌倉時代の武将で、足利氏の有力一門・三河吉良氏の祖。足利義氏の庶長子で、弟に足利泰氏、吉良義継等がいる。母は家女房。通称は足利五郎、または吉良太郎。官途は従五位下上総介、のちに従三位下左衛門尉となる。名前の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子の吉良満氏が創建した実相寺(西尾市)代々の住職の言い伝えでは「おさうじ」と読むのが正しいとされる。子は嫡子満氏の他、今川国氏、土御門顕方室、上野義有室がいる。母が正室ではなかったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。「吾妻鏡」には安貞2年(1228年)7月23日に将軍藤原頼経の随兵として登場するのが最初で、以後、寛喜元年(1229年)の流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い、嘉禎2年(1236年)の将軍の随兵、嘉禎3年(1237年)の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、仁治2年(1241年)1月2日の椀飯の記事を最後に「吾妻鏡」から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる。建長3年(1251年)に鶴ヶ崎天満宮(西尾市)を造営。弘安8年(1285年)、霜月騒動で息子満氏を失ったため、嫡孫吉良貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる。正応3年(1290年)6月18日没。享年80。法名は新御堂殿長氏公大禅定門。 関連項目 吉良氏 今川氏 足利氏
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05足利氏のフリーウィキペディア項目一覧ウィキペディアウィキペディア1290年7月25日有力一門2007正応3年6月18日吉良出典39建暦元年版12吉良長氏長氏は、武将で、百科事典鎌倉時代の1211年00おさうじ、祖きら三河吉良氏の。足利義氏の吉良義継等がいる足利泰氏、弟に庶長子で、。母は家女房。通称はまたは足利五郎、吉良太郎。官途はのちに従五位下上総介、従三位下左衛門尉となる。名前のおさうじ西尾市書物が正しいとされる言い読みは代吉良満氏がとながうじとする多いが、住職の実相寺伝えでは子の創建したの読むのが。子は上野義有室がいる土御門顕方室、他、今川国氏、嫡子満氏の。母が足利家の正室ではなかったため、継ぐことができなかったという家督を長男でありながら。この足利宗家継承権を支流の吉良家とその中で足利一門の今川家のみが元となって、経緯が持つことになる後に。務めている随兵として1237年嘉禎2年足利邸への登場するのが将軍の将軍藤原頼経の1228年使い、吾妻鏡流鏑馬の最初で、射手、将軍御成りの随兵、寛喜元年7月23日にの相模国近国一宮への安貞2年祈祷ののには1229年1236年嘉禎3年献上品引渡しの役等を以後、際の。そして、長氏の最後にから見えなくなる1241年椀飯の1月2日の名前は仁治2年吾妻鏡記事を。鎌倉を地頭職を向かったと考えられる三河国吉良荘へ離れ、務める。建長3年西尾市1251年をに崎天満宮ヶ造営鶴。弘安8年、息子満氏を霜月騒動で1285年失ったため、嫡孫吉良貞義を養子とする。晩年は隠居したとまたはの今川竹崎地に西尾市上町西尾市今川町吉良荘内の言われる。正応3年1290年6月18日没。享年80。法名は新御堂殿長氏公大禅定門。足利氏今川氏関連項目吉良氏。


