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ウィキペディア ⇒ 項目一覧 ウィキペディア 松平直純 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/05/13 13:23 UTC 版)松平 直純(まつだいら なおすみ、享保12年11月8日(1727年12月30日) - 明和元年3月22日(1764年5月12日))は江戸時代中期の大名。播磨国明石藩第3代藩主。官位は従五位下のち従四位下、左兵衛佐のち左兵衛督。父は明石藩2代藩主松平直常、母は側室の松田氏(幾代子)。正室は延岡藩2代藩主のち笠間藩初代藩主の牧野貞通の娘・千姫。 経歴享保12年(1727年)明石城にて誕生する。母は側室で松田友成の養女・幾代子。幼名は千勝。直常より處次郎の名が与えられる。元文2年(1737年)元服。直常より直純の名を賜る。この年、生母の松田氏が死去。翌、元文3年(1738年)初めて将軍徳川吉宗に拝謁。元文5年(1740年)左兵衛を名乗る。従五位下を叙任し、左兵衛佐と改称する。寛保3年(1743年)直常の隠居に伴い藩主となる。翌年の延享元年(1744年)父・直常が明石城二の丸にて病没する。藩財政窮乏のため半知借り上げ、上米を実施。延享2年(1745年)牧野貞通の娘・千姫と婚姻。寛延元年(1748年)朝鮮通信使が来日し幕府より接待を命じられる。この年、正室・千姫との間に嫡子・處次郎(のちの4代藩主直泰)が誕生する。従四位下に昇進する。寛延3年(1750年)財政窮乏対策として銀札を発行。宝暦2年(1752年)左兵衛督と改称。宝暦12年(1762年)再び朝鮮通信使の接待を行う。明和元年(1764年)3月20日に病没。公式な没日は3月22日。享年38。嫡子の直泰が家督を継ぐ。墓所は東京都台東区浅草の幡随院。法号は徳本院殿願擧恵満黙雄。子は直泰の他、直瑗、直喬、満(人吉藩10代藩主相良福将の継室として婚約するが福将死去、のち備前国生坂藩4代藩主池田政弼の正室となる)。 関連項目 越前松平家 松平氏 先代:松平直常 越前松平氏(明石藩3代)藩主1743 - 1764 次代:松平直泰
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1727年12月30日はウィキペディア項目一覧ウィキペディア1764年5月12日2007ウィキペディア大名23江戸時代中期の05明和元年3月22日13出典百科事典松平直純フリー13まつだいらなおすみ、版直純享保12年11月8日松平。播磨国明石藩第3代藩主。官位は左兵衛佐のち左兵衛督従四位下、従五位下のち。父は母は松田氏側室の明石藩2代藩主松平直常、幾代子。正室は笠間藩初代藩主の牧野貞通の延岡藩2代藩主のち娘千姫。誕生する経歴享保12年明石城にて1727年。母は側室で幾代子松田友成の養女。幼名は千勝。直常より處次郎の与えられる名が。元文2年元服1737年。直常より賜る名を直純の。この死去生母の年、松田氏が。翌、将軍徳川吉宗に1738年元文3年拝謁初めて。元文5年1740年名乗る左兵衛を。従五位下を改称する叙任し、左兵衛佐と。寛保3年隠居に伴い藩主となる1743年直常の。翌年の丸にて病没する父1744年延享元年直常が明石城二の。藩財政窮乏のため半知借り実施上米を上げ、。延享2年牧野貞通の娘1745年婚姻千姫と。寛延元年来日し1748年朝鮮通信使が幕府より命じられる接待を。こののちの處次郎4代藩主直泰正室千姫との誕生する年、嫡子間にが。従四位下に昇進する。寛延3年財政窮乏対策として1750年銀札を発行。宝暦2年左兵衛督と1752年改称。宝暦12年接待を行う1762年再び朝鮮通信使の。明和元年1764年病没3月20日に。公式な没日は3月22日。享年38。嫡子の家督を継ぐ直泰が。墓所は東京都台東区浅草の幡随院。法号は徳本院殿願擧恵満黙雄。子は備前国生坂藩4代藩主池田政弼の人吉藩10代藩主相良福将の継室として直泰の他、正室となる直喬、満福将死去、、のち婚約するが直。松平直常先代松平氏1764次代越前松平氏明石藩3代越前松平家松平直泰藩主1743関連項目。


