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ウィキペディア ウィキペディア 足利義量 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/08/19 08:45 UTC 版) 足利義量 凡例 時代 室町時代中期 生誕 応永14年7月24日(1407年8月27日) 死没 応永32年2月27日(1425年3月17日) 戒名 長得院殿鞏山道基 官位 正五位下、右近衛中将、従四位下、参議、美作守、正四位下、贈従一位、左大臣 幕府 室町幕府征夷大将軍 氏族 足利氏 父母 父:足利義持、母:日野資康の娘・日野栄子足利 義量(あしかが よしかず)は、室町幕府第5代征夷大将軍(在位:応永30年(1423年)3月18日?応永32年(1425年)2月24日)。応永14年(1407年)7月24日、第4代将軍・足利義持の嫡男として生まれる。応永30年(1423年)3月18日、16歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任する。しかし疱瘡を患うなど生来から病弱であった上、大酒飲みでさらに健康を悪くしたと言われている。15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられている。また、政治においても隠居していた父の義持や有力管領らの存在もあって実権は無いに等しく、それ以外にやることが無く酒宴を開くだけだったとされている。このため、さらに体調を崩して応永32年(1425年)2月24日に父に先立って早世した。享年19。義量には嗣子が無かったため、父の義持が将軍代行として正長元年(1428年)に死去するまで政務を執ることになった。 木像 栃木県足利市の金剛山仁王院法華坊鑁阿寺所蔵 官職位階履歴※日付=旧暦 1417年(応永24年)12月1日、元服し、義量と名乗る。同日、正五位下に叙し、右近衛中将に任官。12月13日、昇殿を許される。 1423年(応永30年)3月18日、征夷大将軍宣下。 1424年(応永31年)1月12日、従四位下に昇叙。右近衛中将如元。10月13日、参議に補任。右近衛中将美作権守兼任如元。 (美作権守兼任日付不詳) 1425年(応永32年)1月12日、正四位下に昇叙。2月27日、卒去。 1457年(康正3年) 2月27日、贈従一位左大臣。 先代:足利義持 足利宗家(室町将軍家)歴代当主- 次代:足利義教室町幕府将軍 尊氏 | 義詮 | 義満 | 義持 | 義量 | 義教 | 義勝 | 義政 | 義尚 | 義材 | 義澄 | 義稙(義材再任) | 義晴 | 義輝 | 義栄 | 義昭足利氏 - 将軍家
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2007官位母正五位下、右近衛中将、出典19ウィキペディア戒名ウィキペディア美作守、左大臣1425年3月17日足利義量081423年氏族ウィキペディア足利義持、従四位下、正四位下、幕府あしかが在位百科事典参議、室町幕府征夷大将軍版凡例応永30年08父母室町時代中期2月24日よしかずフリー時代贈従一位、1425年義量死没1407年8月27日応永14年7月24日は、応永32年足利義量娘生誕室町幕府第5代征夷大将軍3月18日長得院殿鞏山道基日野資康の日野栄子足利45父足利氏応永32年2月27日。応永14年生まれる第4代将軍足利義持の7月24日、嫡男として1407年。応永30年16歳で譲られて父から第5代将軍に1423年将軍職を就任する3月18日、。しかし生来から患うなど健康を言われている病弱であった悪くしたと大酒飲みでさらに疱瘡を上、。15歳の酒を伝えられている話なども大酒を父の時、起請文をとられたという戒められ、近臣は義量に勧めないよう義持に。また、父の隠居していた無く義持や無いに政治においても等しく、有力管領らの存在もあってそれ実権は酒宴を開くだけだったとされている以外にやることが。このため、さらに先立って1425年体調を応永32年崩して父に早世した2月24日に。享年19。義量には義持が1428年に嗣子が執ることになった将軍代行として死去するまで正長元年政務を父の無かったため、。応永24年12月1日、旧暦木像名乗る日付義量と官職位階履歴1417年栃木県足利市の金剛山仁王院法華坊鑁阿寺所蔵元服し、。同日、任官右近衛中将に叙し、正五位下に。12月13日、許される昇殿を。3月18日、応永30年征夷大将軍宣下1423年。1月12日、従四位下に昇叙応永31年1424年。右近衛中将如元。10月13日、参議に補任。右近衛中将美作権守兼任如元。1月12日、正四位下に1425年応永32年昇叙美作権守兼任日付不詳。2月27日、卒去。贈従一位左大臣2月27日、康正3年1457年。先代義量義材再任義輝義勝足利宗家義尚尊氏義昭足利氏義晴室町将軍家義稙歴代当主義満足利義持義持義材義澄義教将軍家足利義教室町幕府将軍義詮義政義栄次代。


