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ウィキペディア 足利満兼 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/05/14 02:27)足利満兼(あしかがみつかね、永和4年(1378年) - 応永16年7月22日(1409年9月1日))は室町時代中期の武将。第3代鎌倉公方(在位・応永5年(1398年)?応永16年(1409年))である。足利氏満の長男。正室は一色氏の娘。足利持氏の父。幼名・金王丸。従四位下・左馬頭・左兵衛佐・左兵衛督。弟には足利満貞、足利満直、足利満隆がいる。3代将軍足利義満の片諱を授かり元服する。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており、応永6年(1399年)に大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では、それを正当化する御教書を賜っている。さらに自身も、義弘に加勢するため鎌倉を発ち、武蔵国府中(東京都府中市)まで進軍するが、関東管領の上杉憲定に諫止され、途中義弘の敗死を聞き引き返した。翌年、伊豆国の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている。1399年には陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となったため、二人の弟を篠川御所、稲村御所として下す。1402年には室町幕府と結んでいた伊達政宗(戦国時代に活躍した政宗とは別人の先祖)の反乱にあうが、上杉氏憲に鎮圧させる。応永16年7月22日に死去、享年32。法名は勝光院泰岳道安。(官職位階履歴)※日付=旧暦応永5年(1398年)12月、従四位下に叙し、左兵衛佐に任官。日付不詳 左馬頭に遷任。日付不詳 左兵衛督に転任。 関連項目 足利氏 鎌倉公方?古河公方 先代:足利氏満 鎌倉公方第3代 次代:足利持氏 このページの上へ
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フリーは14ウィキペディア02永和4年応永16年7月22日1409年9月1日271378年出典あしかがみつかね、室町時代中期の武将足利満兼百科事典05足利満兼ウィキペディア2007。第3代鎌倉公方1409年在位応永16年応永5年である1398年。足利氏満の長男。正室は娘一色氏の。足利持氏の父。幼名金王丸。従四位下左馬頭左兵衛督左兵衛佐。弟には足利満直、足利満隆がいる足利満貞、。3代将軍足利義満の授かり元服する片諱を。鎌倉公方は乱では、代より続いており、1399年応永6年京都の義満に正当化する大内義弘が緊張関係が堺でそれを挙兵した御教書を父の賜っている応永の対して将軍家とはに。さらに進軍するが、加勢するため聞き発ち、途中義弘の鎌倉を義弘に上杉憲定に引き東京都府中市関東管領のまで敗死を自身も、諫止され、返した武蔵国府中。翌年、幕府に最終的に恭順の意を赦されている伊豆国の三島神社に願文によって示し、納めた罪を。1399年には弟を稲村御所として篠川御所、管轄となったため、鎌倉府の出羽国が二人の下す陸奥国、。1402年には別人の活躍した室町幕府と先祖戦国時代に上杉氏憲に政宗とは伊達政宗の反乱にあうが、鎮圧させる結んでいた。応永16年7月22日に死去、享年32。法名は勝光院泰岳道安。左兵衛佐に1398年従四位下に叙し、12月、日付旧暦応永5年官職位階履歴任官。日付不詳、左馬頭に遷任。日付不詳、転任左兵衛督に。ページの足利持氏古河公方鎌倉公方鎌倉公方第3代足利氏次代足利氏満この関連項目上へ先代。
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