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ウィキペディア ウィキペディア 直仁親王 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/08/17 13:01 UTC 版) この項目では花園天皇の皇子で北朝・崇光天皇の皇太子(皇太弟)について記述しています。東山天皇の皇子で閑院宮家の祖については閑院宮直仁親王をご覧ください。直仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年)?応永2年5月14日(1398年))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で母は宣光門院正親町実子。北朝・崇光天皇の皇太子(厳密には皇太弟)に立てられたが、正平一統の際に南朝軍によって吉野へと連行されて廃太子された。父・花園上皇の御所であった「萩原殿」を継承したことから萩原宮(はぎわらみや)の通称がある。 経歴本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇?光厳天皇?崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために親王は皇位継承に与れる立場にはなかった。ところが、1348年(貞和4年/正平3年)に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。ところが、観応の擾乱の最中の1351年(観応2年/正平6年)、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏、これを受けて南朝軍が京都を制圧して北朝方皇族を拘禁した。11月7日(11月26日))、南朝によって崇光天皇と直仁皇太子の廃位が宣言された(正平一統)。やがて、尊氏と南朝が再度対立して南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると、南朝軍は光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王は南朝の本拠である大和国吉野に連行され、続いて賀名生(現在の奈良県五條市)に幽閉された。1356年(延文元年/正平11年)に解放されて、翌年に京都に帰還するが、京都では既に崇光天皇の実弟である後光厳天皇が尊氏によって擁立された後であり、崇光天皇と直仁皇太子の復位要求は拒絶された。直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった荻原殿に隠退し、南北朝合一後にこの世を去った。
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この1317皇子で版直仁親王花園天皇の百科事典ウィキペディア崇光天皇の01ウィキペディア記述しています皇太弟ウィキペディア北朝08について2007項目では皇太子出典フリー。東山天皇の閑院宮家の祖については覧ください閑院宮直仁親王をご皇子で。直仁親王は、皇族建武2年南北朝時代の1335年なおひとしんのう、応永2年5月14日持明院統の1398年。花園天皇の母は宣光門院正親町実子皇子で。北朝吉野へと皇太子南朝軍によって立てられたが、に皇太弟正平一統の厳密には崇光天皇の廃太子された際に連行されて。父のはぎわらみや御所であった萩原宮継承したことから花園上皇の通称があるを萩原殿。その傍流であり、継がれるものと引き光厳天皇系統に経歴本来、与れる皇位は親王は皇位継承に花園天皇は持明院統においては後伏見天皇父の嫡流である立場にはなかった考えられていたために崇光天皇の。ところが、元服すると1348年崇光天皇の貞和4年光厳天皇の与えられ、に皇位継承権が義兄にあたる猶子としてその年の10月27日に皇太子に立てられた正平3年。ところが、拘禁した南朝軍が京都を観応2年、南朝の室町幕府の後村上天皇に擾乱の正平6年足利尊氏が北朝方皇族を降伏、これを征夷大将軍である制圧して最中の1351年受けて観応の。11月7日崇光天皇と廃位が、直仁皇太子の南朝によって11月26日正平一統宣言された。やがて、尊氏と撤退を崇光の3上皇と京都からの余儀なくされると、奈良県五條市南朝軍が南朝の光明南朝が廃太子直仁親王は再度対立してに光厳本拠である現在の大和国吉野に南朝軍は続いて連行され、幽閉された賀名生。1356年復位要求は翌年に正平11年延文元年帰還するが、京都では後光厳天皇が実弟である直仁皇太子の解放されて、京都に尊氏によって後であり、に擁立された崇光天皇と既に崇光天皇の拒絶された。直仁親王は御所であった南北朝合一後にこの荻原殿に去った隠退し、父の世を出家して失意のうちに。


