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藤原冬嗣 - hatena
平安時代前期の公卿・詩人。閑院大臣と号する。宝亀五(775)年生、天長三(826)年薨。父は藤原内麻呂、母は女嬬百済永継。同母兄に藤原真夏、同母弟*1に良岑安世らがいる。大判事・春宮亮・蔵人頭を経て、弘仁二(811)年に参議となる。嵯峨天皇に信任され、その後は権中納言・中納言・大納言・右大臣と昇進し、左近衛中将を兼任して政界の中心として現実的地方政策の推進にあたった。天長二(825)年には左大臣になったが、翌年没。正二位。のちに贈正一位太政大臣となる。穏和な性質で文武を兼ね備え、よく人に慕われたという。とくに文の面においては、『弘仁格式』『日本後紀』編纂にも従事し、漢詩もよくして『凌雲集』『文華秀麗集』でその作品を残った。また、藤原氏と北家興隆の基礎を築いた人物でもあり、一族のために学問施設勧学院を建てたり、すたれていた施薬院を復興したりもした。文徳天皇の外祖父。
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平安時代前期の公卿詩人。閑院大臣と号する。宝亀五年生、826年薨天長三775。父は母は藤原内麻呂、女嬬百済永継。同母兄に同母弟1に藤原真夏、良岑安世らがいる。大判事年に蔵人頭を春宮亮811経て、参議となる弘仁二。嵯峨天皇に右大臣と昇進し、左近衛中将を信任され、後は兼任して現実的地方政策の中心として大納言権中納言政界のその中納言推進にあたった。天長二翌年没年には左大臣になったが、825。正二位。のちに贈正一位太政大臣となる。穏和な人に備え、文武を兼ね慕われたという性質でよく。とくに文の凌雲集残った弘仁格式日本後紀でその面においては、従事し、文華秀麗集漢詩もよくして編纂にも作品を。また、基礎を人物でもあり、建てたり、北家興隆の施薬院を学問施設勧学院をすたれていた築いた一族のために復興したりもした藤原氏と。文徳天皇の外祖父。
妻と子女
妻と子女 藤原美都子(藤原真作女)藤原長良藤原良房(忠仁公)藤原良方藤原良輔藤原良相藤原良門藤原良世藤原順子(仁明天皇女御)藤原古子(文徳天皇女御)
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妻と仁明天皇女御藤原良方藤原良輔藤原良相藤原良門藤原良世藤原順子文徳天皇女御藤原古子藤原真作女藤原美都子子女忠仁公藤原長良藤原良房。
左大臣冬嗣
左大臣冬嗣 この大臣は内麻呂大臣の三男。母は正六位上飛鳥部奈止麻呂の娘である。公卿の位に16年。うち大臣の位に6年。文徳天皇の外祖父であるがゆえに、嘉祥3年《庚午》7月17日に贈太政大臣となる。閑院の大臣と呼ばれる。この大臣には、男子が11人いたが、こまごまとした女子の事はよく分からない。ただし、文徳天皇の母后順子、贈太政大臣長良、太政大臣良房、右大臣良相は同母の兄弟姉妹である。(『大鏡上〜左大臣冬嗣』より要約)
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左大臣冬嗣この三男大臣は内麻呂大臣の。母は娘である正六位上飛鳥部奈止麻呂の。公卿の位に16年。うち大臣の位に6年。文徳天皇の庚午7月17日に嘉祥3年贈太政大臣となる外祖父であるがゆえに、。閑院の大臣と呼ばれる。このこまごまとした事はよく分からない大臣には、男子が11人いたが、女子の。ただし、右大臣良相は母后順子、同母の兄弟姉妹である太政大臣良房、文徳天皇の贈太政大臣長良、。大鏡上左大臣冬嗣より要約。
ウィキペディア 藤原冬嗣 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/04/15 23:13) 文学 ポータル 各国の文学記事総覧 出版社・文芸雑誌文学賞 作家 詩人・小説家その他作家藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ 宝亀5年(775年) - 天長3年7月24日(826年8月30日)は、平安時代の公卿、歌人。北家藤原内麻呂の次男(『大鏡』には三男という記載あり)として生まれる。生前の最終階位は父内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ北家隆盛の基礎を築いた。平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称されたことから、閑院左大臣とも言われる。政界での活躍の他、藤原氏一族の子弟の教育機関として勧学院の建立。貧民のための施薬院を復興。氏寺の興福寺に南円堂を建立。また『弘仁格式』『日本後紀』『内裏式』などの編纂にも従事し、文武を兼ね備えた多方面で活躍した。『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に漢詩、『後撰集』には和歌も残している。 目次1 系譜2 略歴3 藤原冬嗣を題材とした小説4 関連項目 系譜 父:藤原内麻呂 母:百済永継(安宿奈止麿女)(飛鳥部奈止麻呂女という説もある) 妻:藤原美都子(父:藤原真作) 長男:藤原長良(802年-856年) 二男:藤原良房(804年-872年) 五男:藤原良相(811年-867年) 六男:藤原良門(勧修寺家系) 八子:藤原良世(823年-900年) 長女:藤原順子(809年-871年)(仁明天皇女御) 妻:不明 三男:藤原良方 四男:藤原良輔 七男:藤原良仁(819年-860年) 次女:藤原古子(文徳天皇女御) 妻:大庭王女 八男:藤原良世(823年-900年) 妻:百済仁貞女 略歴 大同元年(806年) 従五位下 大同元年(806年) 賀美能親王(嵯峨天皇)の春宮大進、のち春宮亮に昇進 大同4年(809年) 嵯峨天皇即位の日に正五位下、翌日従四位下に越階昇叙 大同5年(810年) 蔵人所の設置に伴い蔵人頭に就任、式部大輔 弘仁2年(811年) 参議 弘仁5年(814年) 従三位 弘仁7年(816年) 権中納言 弘仁7年(816年) 陸奥出羽按察使 弘仁7年(816年) 中納言 弘仁7年(816年) 大納言 弘仁12年(821年) 右大臣 弘仁12年(821年) 大学別曹の勧学院を設立 弘仁14年(823年) 正二位 天長2年(825年) 左大臣 天長2年(825年) 52歳で死去。贈正一位 嘉祥3年(850年) 太政大臣を追贈 藤原冬嗣を題材とした小説永井路子『王朝序曲』角川書店,1993年 関連項目 藤原氏 藤原氏の人物一 ..
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文学記事総覧文学04文芸雑誌文学賞2007詩人ウィキペディア百科事典775年ポータル1315宝亀5年藤原冬嗣出版社ウィキペディア公卿、他作家藤原冬嗣23平安時代の各国のは、天長3年7月24日ふじわらのふゆつぐ小説家その826年8月30日フリー出典作家歌人。北家藤原内麻呂のには次男大鏡として生まれる三男という記載あり。生前の一階級上の基礎を最終階位は築いた北家隆盛の左大臣まで父内麻呂より昇りつめ。平安左京三条二坊にあった称されたことから、言われる閑院左大臣とも私邸が閑院邸と。政界での藤原氏一族の教育機関として他、勧学院の活躍の建立子弟の。貧民のための施薬院を復興。氏寺の興福寺に南円堂を建立。またなどの兼ね弘仁格式日本後紀内裏式活躍した編纂にも文武を従事し、多方面で備えた。文華秀麗集にには凌雲集残している経国集、和歌も、漢詩、後撰集。大同4年806年母、仁明天皇女御略歴3百済永継天長2年春宮大進、右大臣昇進正五位下、藤原良世816年左大臣五男藤原冬嗣を春宮亮に大同5年百済仁貞女、陸奥出羽按察使823年説もある長女関連項目権中納言804年900年父越階昇叙809年、従五位下、大学別曹の弘仁12年文徳天皇女御825年823年弘仁7年、821年目次1、従三位872年のち妻856年蔵人所の大同元年設立妻妻次女大納言系譜蔵人頭に藤原美都子中納言弘仁7年871年藤原内麻呂806年四男810年伴い藤原真作弘仁14年811年式部大輔勧学院を賀美能親王安宿奈止麿女弘仁7年、藤原良仁弘仁5年814年、飛鳥部奈止麻呂女という811年900年816年819年八男52歳で妻、就任、の、867年、816年藤原古子弘仁7年藤原長良弘仁12年翌日従四位下に大同元年勧修寺家系藤原良輔藤原順子設置に二男809年嵯峨天皇藤原良房参議、、、系譜2七男、日に長男父嵯峨天皇即位の三男816年弘仁2年正二位藤原良相802年藤原良方藤原良世823年不明大庭王女八子六男藤原良門天長2年小説4860年略歴825年題材とした死去821年。贈正一位藤原氏の嘉祥3年王朝序曲藤原冬嗣を人物一題材とした太政大臣を藤原氏関連項目850年、小説永井路子追贈角川書店,1993年。


